手を目にする

手を目にして世界を見る。
何かを知ったり、理解したり、認知したりする際、私達は殆どの場合、視覚情報を頼りにしている筈だ。その他の五感も当然、大きな役割を果たしてはいるが、目は特に中心的な役割を果たす感覚器であると言える。試しに目をつぶって、そこらを歩き回って欲しいと思う。かなりの恐怖に襲われると思う。これだけの動作でも、世界を認識する上で、普段どれだけ目に依存しているのかが分かるのではないだろうか。
大野さんがおっしゃっていた「目」とはすなわち、普段の生活で一番注意して使っている
感覚器ということなんだと思う。

そこでこの意識を注力する先を、目ではなく、手にしてみたら、一体どんな印象が得られるのか?同じ様に、足に、背中に、胸に、鼻に、耳にしてみたら、一体どんな印象が得られるのか?
大野慶人さんは、この事を体験して貰いたかったのではないだろうか?


試しに意識を手の平だとか、足の裏だとか、背中だとかに2分ほど集中してみたのだが、それでは勿論、手でモノを見られるようになったりはしなかった。
だが、例えば手の筋肉や皮膚、背中の皮膚や毛などといった、普段意識していないような自分の身体の一部分に注意を向ける事は非常に面白い体験だった。

例えば足の薬指に意識を集中して、動かそうとしてみる。そこだけを随意に動かすのは中々苦労するはずだ。数分間といわず、10秒程度やってみればわかると思うけれども、やはり中指や小指も動いてしまう。しかし、この薬指に意識を集中するというまったく新しい体験は、足の薬指が自分の身体である、という当たり前の事を再確認させてくれるのだ。

普段、道を歩いている時、私達は足の薬指にどれだけ力を入れるか、とか、今日は薬指を積極的に使って歩こう、とかそんな事は意識しないでいる。だから足の薬指がいまどうなっているかと言うことは気にも留めていないと思う。無意識の内に、足の指を使い地面を蹴り、私達は歩いているのだ。


そしてまた、特に足の薬指の事だけに限らず、私達は生きている上で、自分の体に対して驚くほど無関心だ。

例えば、椅子に座り机に向いながらご飯を食べている時に、椅子に腰掛けた自分のお尻の筋肉がどうなっているか?なんて事は一切気にしていないし、箸を持った右手の肘をどう動かすか?なんて事も一切意識の範疇に入っていない。


「忘れ去られた身体の動き」と舞踏家の人は言うかも知れない。


こうした忘れ去られた、無意識の身体の動作、あるいは無意識化された身体の一部を、意識下に置こうというのが、大野慶人さんのやろうとしていた事なんだろう。
「あ、いま手の平を使っている。肘を動かしている」という、「感覚」を発見して貰いたかったのではないのだろうか。

自分を知る、というと、どうしても頭の中ばかりで考えてしまって、「自分は臆病な人間だ」とか「私は活動的だ」とか、心のあり方=自分という図式が成り立ってしまっている。デカルトに文句を言う気は毛頭無いが、だが「指の動かし方を知る」事もまた、「私を知ること」に他ならないのだ。



これが、1「手を目にする」という課題について何となく分かった事だった。
次に、2「花になる」というのはどういうことか?を書いておきたい