インターネットの情報はどこまで信頼できるのか

LastFMというネットラジオ+SNSみたいなサイト(※このページの上方に表示されているプレイングリストもそのサイトの一機能を用いている)に、アーティスト紹介ページというのがある。

たまたまその中の「Rekevin」というアーティストの紹介文を見てみると、自分がこのブログで以前に書いた記事を中途半端に転載?(RSSとかのリンク張った訳じゃなさそう)したものだったのにびっくり。元々、LastFMの紹介文とかも参考にしながら書いたものだったのに、それが逆輸入されてしまった格好だ。

確かに日本語で紹介しているページはこのブログ意外に無い(と思われる)ので、転載してくれても全然構わないんけれど、どうせならもうちょっとちゃんと書いたやつだったら良かったのに・・・等と思うことがあった。

オリジナル記事
 http://d.hatena.ne.jp/necromantic/20090328

LastFMのページ
 http://www.lastfm.jp/music/Rekevin

 今更改めて語る程の事ではないが、インターネット上には、良くも悪くも情報が溢れ返っている。いまや死語となりつつある「web2.0」という言葉でかつて語られたように、webの世界は、特定の何者かによる一方的な情報の発信という次元から、相互発信しながら無限に増殖していく次元に移行してきている。
 このブログもしかりだが、インターネットを情報の受発信ツールとしてのみ捉えたとすると、もはやユーザとプロデューサの間には、それほど明確な線引きは出来ないだろう。
 それ故に、極端な話をすれば、日経新聞とスポーツ新聞、そして恐怖新聞便所の落書き的なものもインターネットというプラットフォーム上に流れている情報という意味では「等価」であるとも言えるし、時には便所の落書き的なものの方が、価値が高いとされる可能性すらあり得る。(それが本当に価値あるものなのかは別の話だが。)
 このような状態が望ましいのかどうかは単純に判断出来ないが、この傾向は、今後益々顕著になっていくに違いない。

 では、そうなった時に、一体私達はどの情報を「信じれば」良いのか?

「パブリックな情報」は、かつては発信者が限られていたから、それにより情報の信頼性が担保されていた。新聞の全てが正しい訳ではないが、それでも真実に限りなく近いものであることは誰もが疑わない点であった。
 しかし、誰もが均等に情報を発信する機会を得て、その情報受発信のあり方が趨勢を占めるようになった時、私達は情報の確からしさを「誰がそれを発したのか」ということではなく、「その情報は恐らく正しいと考えられる」という「情報の確からしさに関するリテラシー」によって判断していくことになるだろう。

 結局何を言いたいかというと、上のLastFMの話ではないけれど、ネット上に溢れ返っている多くの情報は、もはや元々の発信者が誰なのかも分からないし、それが信頼に足る情報なのかも断定は出来ない状況になっているから、常にインターネット上の情報は眉唾ものだ、ということを意識しておかなければならないね、ということだ。

特にRekevinの情報をLastFMで調べる時などは・・・。