茶香服②

村田茶園による説明書きをまとめると、

1:茶香服の歴史
 源流を辿れば、場所は中国、時代は宋時代に至るという。抹茶の産地や茶を点てるのに使った水の種類などを当てる遊び=「闘茶」を行っていたのが、日本に伝わったのだとか。
日本で初めて行われた「闘茶」は、京都の「栂尾(とがのお)」という所で採れた茶か、それ以外のところでとれた茶なのかを「本茶」か「非茶」かと飲み分けたものが最初らしい。

で、室町(南北朝)時代(1336〜1392年あたり)に隆盛を迎えたとの事ですが、当初貴族の優雅な遊びとして発展したそれは、次第に賭け事になり、1336年=室町の成立と同時に、禁令すら出るまでになったとか。
その後、千利休による「茶の湯=茶道」の創設と共に、茶事の余興として、「茶香服」としてまとめられていったとか。

2:茶道と茶香服「茶とは遊に非ず芸に非ず、
一味清浄、法喜禅悦の境地にあり」(珠光)
と、以上のように、村田茶園さんではまとめていたけれども、wikipediaによる茶道の説明によれば、茶の湯というのは、闘茶や茶寄合が東山時代に「村田珠光*1*2」という臨済宗の禅僧が始めた「わび茶」を源流とするものらしい。珠光以前のお茶会というのは、中国製の高価な陶磁器=「唐物」を用いた絢爛豪華なものであったらしいが、珠光はこれに対して、粗末な陶磁器(珠光青磁と呼ばれている)を用いた質素な茶の湯を生み出したとされる。wikipediaの記述に従えば、

「様式としてのわび茶とは、唐物を尊ぶ既成の価値感への反抗を母体として発生したと見る必要がある。

というところらしい。

茶の湯といえば千利休、と思っていたのだけれど、正確には大成者といったところらしい。実際に、利休も珠光のことを「茶の湯の開山」として評価していたそうですし。

3:茶と禅

*1:村田珠光は、最初、浄土宗の僧侶であったが、後に臨在宗大徳寺派に参禅。一休禅師(あの「一休さん」)に師事。珠光は足利義政同朋衆能阿弥を通じて「殿中の茶」を学ぶとともに,庶民のあいだに伝わっていた地味で簡素な「地下茶の湯」の様式を取り入れ,さらに一休宗純から学んだ禅の精神を加味して,精神的・芸術的内容をもつ茶道を完成。

*2:ちなみに一休禅師の周辺には禅僧の弟子のほか,一休の肖像を描いた没倫紹等(墨斎)・連歌の柴屋軒宗長・俳諧連歌山崎宗鑑能楽金春禅竹茶の湯村田珠光など文化の新展開に貢献した人物が多かった。