茂木健一郎「生きて死ぬわたし」

A読了
B:97年度の著作。02〜04年度の著作と比べると内容・文章ともに発展途上といった感がある。もちろんこの著作も興味深いものではあるのだが、ただ、これと比較すると最近の著作は明らかに文章が巧くなっているし、情報の密度、そして広がりの双方が増している気がするのだ。
だからこの本の第一の感想は、サナギから脱皮途中の蝶(きっとそんな言い方は失礼なのだけれど)とでも言おうか、茂木さんの思考の経過を楽しむ本なんじゃないか?というものだ。この本だけでも面白いが、出来れば近年の著作も同時に読んで貰いたい。きっとその方が楽しめるだろう。

気になるフレーズがあった。

「私が死んで何十億年と経てば、私の体を作っていた分子は、新しい星の材料になることだろう。だが、そのことは、その超新星の中に私が生きていること、あるいは私の名残が生きていることを意味するのではない。私という関係性は、あくまでも私が死んだ時に消えている。生きて死ぬ私。それは、私という関係性の歴史でもある。」

そして、もう一点。

p31~
茂木さんが、家族と食事をしている際に「俺が死んでも墓になど入れてくれなくても良い」と言うと、「母親は、赤ん坊に火がついたように泣くように泣いた」そしてこう言った「私が死んでも、私を墓に入れてくれない気だ。私が死んでも、墓参りにも来ない気だ。」

P32~
「私は人間は死んだら無だと思っている。・・・私という人間が死ぬ時が来たとしたら、その後には、私という人間の心を支えていた物質的基盤は全て無くなってしまい、それで終わりと言う事だ。」
p34~
「私の死後私の骨を墓に入れようがどうしようが、それは私の詩を思い出す人にとっての問題であって、私の一身には(そのような時は、そもそも私は存在していないのだから)かかわりの無いことだと思っている。」
p35~
「人が人の死をどう悼むかということは、単なる習俗の問題でもあるし、死生観そのものに関わる問題でもある。」

引用終わり

<コメント:


人の死を悼み、そこで生まれる悲しみは、死んだ本人にとっては無関係だろう。私も茂木さん同様に、死は無だろうと考えているし、死者は「今」という時間に対して何らかの働きかけをする事は、恐らく出来ない。そういった意味で死者と悲しみは無関係だ。しかし同時に、死は無ではないと“考えたい”とも思っている。この矛盾した考えは、死、いや、むしろ生に二側面がある事に由来する。

1つは、個的体験としての生であり
2つは、他者の記憶としての、ワタシの生である。


■ワタシと世界はどうやって生まれるのか。

例えば、ワタシは「物」ではなく「生物」であるとか、「植物」でなく「動物」であるなんワタシは彼ではない、などといった今更考えるのが馬鹿らしい問題から始まって、「日本国」「兵庫県」に住んでいる、私は「男性である」と言った情報、あるいは「はてなで日記を書いている」なんていう些細な情報。
あの人は、ワタシの事を変人だと思っている、あの人はワタシの事をまるで筧俊夫のようだと言う。ワタシは今、それを聞いて「そうかもね。」とニンマリ微笑んでいる。この感情ってなんなんだろう。・・・と、自問自答し、自らの位置を定位していく。

自分が何かと違う事、あるいは同一である事などを認識することによって、次第にワタシは立ち上がってくる。そして同時に、ワタシが定位される事で、ワタシを取り囲む世界も定位されるのである。

ワタシも世界も、恐らくワタシの記憶の中にしか存在しない何か、であろう。
私が物理的終焉を迎える頃、同時にワタシも消え、そして世界も消える。

■他者の記憶としてのワタシ

ここで述べられている関係性は「他者の記憶」という関係性にまで、恐らく言及されていない。これは当然と言えば当然である。「他者の記憶」は、私の「外部」に置かれたものであるから。
私は「他者の記憶」を主体的に認識する事が出来ないし、だから他者の記憶は言葉を介して理解するしかない。言葉を介した理解というのは、「他者の記憶そのもの」を体験した事にはならないのだから、それはあくまで予測にしか過ぎない。
私は恐らく、彼がワタシをどう認識しているのか、を完全に知る事が出来ないし、また同時にワタシが彼をどう認識しているのか、という事を彼は知る事が出来ない。



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