番組

◆敦盛◆
金剛流宗家の金剛永謹さんで御座います。地謡なども見やれば、うぉっとこいつぁ金剛流オールスターじゃぁ御座いませんか。すげぇ面子だなぁ。

個人的に藤田六郎兵衛さんが好きなので(というか、好きな人は多いと思うけど)、それだけでも満足でやんした。隙無しの舞台で御座いましたなぁ。


舞台の最後の辺りでこういうシーンが御座いまして、私はココが好きなんですな。

つまり

敦盛が自らの命を奪った敵(カタキ)である蓮生をふと見つける訳です。あな憎し、と一瞬刃を向け斬りかかろうとするのですが、蓮生が敦盛の死を悼み出家して坊主になって、敦盛を供養しているのだ、という事実に気が付いて、「コイツぁ刃を向ける相手を間違ってた」と敦盛は刃を引く訳です。んでまぁ、憎む事を止め成仏していくのですが、そのシーンの敦盛の心の移り変わり方が何とも穏やかで宜しいんですなぁ。敦盛の心がふと解れてゆく様が上手く演じられ、伝わってきました。

うーんイイネ。


◆萩大名◆
鶏並みの記憶力の大名のお話。分かり易くてフツウにおもしれーや。茂山千作さんが凄い。そこに居るだけで場が和んで笑いの空間になってしまう。お豆腐狂言万歳


◆葵上◆


待ってましたの葵上。ええと、原典は源氏物語でして、まぁ説明しなくても良いほど有名だとは思うのですが一応。主人公は光源氏に捨てられてしまった上品で美しい才女の六条御息所六条御息所葵祭りでのちょっとした騒動*1が原因で、恋煩い+鬱+ヒステリーの複合作用で寝込んじゃう訳です。そして憎いが愛しい光源氏が寵愛する葵上を恨んでしまう、と。静かに激しく狂おしく。あまりに深く積もった恨みは、ついに六条御息所を生霊にしてしまう。んで、その生霊が葵上を苦しめる。ここまでが、この物語の前提ですな。

で、実際の舞台の話ですが、まずはその「葵上」を模した小袖が舞台に運ばれてくる。
もうこの瞬間からドキドキもんです。

ワキ(脇役)の人が、つらつらと現状を報告する。悪霊が出て困っているから、正体を見出して退治せねばなぁ、とそんな感じで。

そしてその口上が一通り済んだところで、謡いが始まる。ここではシテ(主人公)の六条御息所の悲しい身の上が嘆かれる訳です。こんな風に

次第〜サシコエ「浮世は牛の小車の、浮世は牛の小車の。めぐるや報いなるらん。
およそ輪廻は車の輪の如く、六趣四生をいでやらず。
人間の不定芭蕉泡沫の世の習い。昨日の花は今日の夢と、驚かぬこそ、おろかなれ・・・・」



◇怪しい口語訳(「能楽の杜」参照):
浮世の苦しみは牛車の車輪*2のように、因果応報、巡り巡る。
(恐らく)これも前世の報いなのであろう。
輪廻は車輪のように巡るから、私達は六道四生の苦界から放たれることは無い。
人間の一生は変化し続け、芭蕉の葉や水の泡のように、
昨日の花(栄華やロマンスって事だろうな、きっと)も、諸行無常、今日には夢と消えてしまう。それに気づかずにいたとは、なんと愚かなことだろう。

あぁ、泣ける。なんだか凄く泣ける。切なくなっちゃうなぁ。と、いうところで、六条御息所の生霊が登場して自分の声で、こんな状態になっちゃってる自らの身を嘆き、悲しみ苦しむわけですなぁ。。

「思い知らずや世の中の、情けは人の為ならず*3。我ひとの為つらければ、
我ひとの為つらければ、必ず身にも報うなり。何を嘆くぞ葛の葉の、
恨みはさらに尽きすまじ・・・」



◇訳:
分かっているでしょうか。世の中の情け(慈悲)は、人に与えるものではなく、自分のためにするものだ、と言う事を。私がその人の為に辛い思いをさせられているという事は、必ずやその人にも報いがくるという事なのです。仮にその人がどんなに嘆き苦しむ事があっても、私のこの恨みは消える事はないことでしょう。



と言って、六条御息所は尚更恨みの思いを募らせていくわけです。同時に自らの浅ましさを恥じながら葵上の枕元で煩悶するのです。殺してやりたい程憎い、でもそんなことしてはいけない。。。ってな感じですが、結局、恨みの思いが勝ってしまい、葵上を扇でハタと打つんですなぁ。

シテ「今の恨みはありし報い」
ツレ「瞋恚の焔は」
シテ「身を焦がす」
ツレ「思い知らずや」
シテ「思い知れ」




くぅぅ。すげぇ。秘めたる怨念と悲しみ、苦悩といったものが。発せられる音声や、挙動の細かな箇所に現れております。派手じゃないし、あからさまじゃない。でも大きな感情の動きが伝わってくる。上手いなぁ観世栄夫さん。言葉だけでも十分に怖いけど、それを倍加させるのは演者の力。怖いイイ、って感じです。
この台詞を言っている時点では、未だ六条御息所は普通の女性の姿をしています。そしてこの台詞の後に、仕舞「枕の段」として知られている踊りをした後に、小袖をはらりと脱いで、その小袖を持ったまま両手を上げ「バンザイ」をしたような格好をして、小袖を傘のようにして被り、体と顔を隠しながら、一度この場を去ってゆくんですな。




それで、狂言を挟んだ後に、また同じような格好(小袖を被った)をした六条御息所が現れるのです。六条御息所を退治せんとする僧侶が待ち受ける舞台中央に来て、そこでその小袖をバサっと振り捨てるのですな。すると、その中からは、般若の形相となった六条御息所がッッッ!!
で、熾烈な戦いが繰り広げられる訳ですな。この時の僧侶の武器は、経文と数珠なんですが、それが何故だか修験道密教の経文な訳です。なんでやろなぁ。


健闘空しく、六条御息所は敗れてしまい

「悪鬼心を和らげ 忍辱慈悲の姿にて 菩薩もここに来現す 
 成仏得脱の 身となり行くぞありがたき 身となり行くぞありがたき」

ってな感じで、舞台が終わるのですが、

言葉では、「悪鬼心を和らげ 忍辱慈悲の姿にて 菩薩もここに来現す」 なんて言っているにも関わらず、
舞台での六条御息所は「諦めた」ように見えました。


仏のような平穏な状態に至ったとか、慈悲心が芽生えたとか、そういうのじゃなくて、


「これ以上恨み続ける事の空しさに気づき、諦めた、或いは恨む事の悲しさに耐えられなくなって諦めた」というように感じました。


心なしか、舞台を去ってゆく六条御息所の足取りは成仏したという清々しさではなく、気力を喪失し放心状態になっている人のそれでした。これは多分、観世栄夫さんなりの解釈なのかなと思った次第でした。


*1:六条御息所葵祭り見物に赴き、牛車を停めて「葵祭りの行列」を見物しようとそれを待っていたところ、いきなり「その場所をどけ。そこは葵上さまの場所だぞ。」と葵上の従者が無礼にも脅しかけてきて、六条御息所の牛車は結局押しのけられてしまう訳です。「何たる恥辱」と六条御息所が言ったかどうかは知りませんが、この一件で激しく彼女は傷付いてしまうんですなぁ・・・

*2:何故、牛車の車輪のようになんて書くかと言うと、それは注1に書いた事件のことを指している訳です。葵祭りの牛車の一件ね。

*3:私は少なくともこの言葉の意味を勘違いしていた時期がありました。情けは他人のためにならないから、かけるもんじゃない。甘やかしたら返ってそれは、その人にとっては悪い結果が訪れる、という意味だと思っていました。でも、どうやら情けは他人の為にかけるものではなくて、自分の為にかけるものなんだよ。っていう意味のようですな。