KPOキリンプラザ6F「ニュージオメトリーの建築」

遠藤秀平 × 藤本壮介
遠藤秀平の作品はいまいち良く分からなかったが、藤本壮介の作品は「新機構のモデルルーム」のようなものだったのでだいぶ楽しめた。近々、写真をUpする予定。
以下、藤本壮介によるコメント
「普通の楽譜は5線がある。それは、まずはじめに均質な時間の流れが設定され、その時間の上に音がおかれていくイメージである。5線のない楽譜を想像してみる。このとき、背景に流れる時間は存在しない。ある音が鳴ることで、初めてそこに時間が生まれる。
そして音と音との関係性の中に、時間が流れていく。
時間の上に音がある5線譜の楽譜に対して、音の中に時間がある5線のない楽譜。
時間を空間に置き換えてみる。」

「日本の庭、例えば慈照寺銀閣の庭を考えてみる。
そこには目に見える構造はない。
しかしその中を一歩一歩と歩いていくと、庭を構成している木々などの無限の要素が、無限の関係性をもちながら、次々と目の前に現れてくる。その場を規定しているものは、大きな構造ではなくて、部分の局所的な関係性の無限の網目であろう。
それはあるいは、ジャングルの幾何学と言っていいかもしれない。ジャングルに幾何学などあるのだろうか?
しかし限りない乱雑さの中に新しい幾何学を見つけることが出来るとするなら・・・」


そこに壁はあるが、決してそれは乗り越えられない境界ではない。空間に連続性と持続性を与える、緩やかな仕切り。

文化人類学エドワード.ホール「かくれた次元」にこのような事例がのっていたのを思い出す。例えば西欧の家屋は、壁によって部屋が区切られ各々の部屋は独立した機能を付与される。
その空間の用途は変化することがない。断続的な空間の集合が家だ。これに対して日本の家屋は、あるときは茶の間、あるときは寝室と時間に応じて空間の用途は流動的に変化していく。境界は曖昧であり、空間に付与される時間は連続性を保ち続ける。
ホールは、この空間の在り方と精神文化の形成を関係付けて論じる。
個の文化と、集合性の文化。

藤本壮介の造りだした空間は、この意味において日本的なものと呼べるのだろうし、同時に、完全な連続性を示したものは無いという点において西欧的なものでもあるのだろう。

独立しながらも、連続性を拒まない、新しいスタイルが見られたように思う。
この空間で暮らす事によって、どんなコミュニケーションが生まれるのか。
期待が膨らむ様式であった。