自分の意識


僕らは街路を歩いている時、靴の裏がどんな地面を踏んでいるのか、デコボコなのか、滑らかなのか、アスファルトなのか砂利なのか、土なのかなんて事は意識していないし、知ろうともしていない。また道端に昆虫が居るのか居ないのか、街路に生える木々の数や形や種類、風がどれくらいの強さで凪いでいるのか、木洩れ日が作ったシルエットの形は?

そんな事よりも目指している店頭に欲しい商品が並んでいるのかどうか、とか、雨が降ってきたら困るな、とか、腹が減ったな何を食べよう、急がないと待ち合わせに遅れてしまうどうやって言い訳しよう・謝ろう、いま擦れ違ったあの人は素敵だな、あるいはそれと全く関係無いような思索に耽っていたり、と、自分と自分の行動に比較的影響を及ぼしそうなモノに意識をよせている事が多い。

僕らの意識というのは、悲しい事に、同時に多くのモノを捉える事が出来ない、同時にあまりにも多くの事を考え、処理する事は出来ない。道を歩いている時に、自分にとって必要なものは、大抵の場合、その道がどんな道なのかどうか、という事ではないから、必然的に「足の裏で感じた道路のデコボコ」などといった情報は排除されてしまう。無意識の内に、僕らは情報の選別を行い、自分にとって必要度の低いものを意識の座から追い落としていっているのだ。


こうしてぶつぶつ独り言の様な事を書き散らして、結局のところ何が言いたいか、というと
上記した事の繰り返しではあるが、
結局のところ僕らの意識というのは、同時並行的に処理出来る情報は限られている。それ故に意識は、図らずとも一定の方向性を持たざるを得ない。日常は排除されかねない情報に満ち溢れているのである。

だからたまにその意識の矛先に多様性を持たせないと、日常が色褪せてしまい、日々を生きる事がつまらなくなりかねない。美しいものを見逃しかねない。面白い事から自分を遠ざけてしまう可能性が高い。

常に何か一つの事を考え続ける事、それ自体は悪くないとは思うのだ。それによって得られるモノも大きいから。しかし、道を歩いている時、食事を食べている時くらいは、一端その「一つの物事」に対しての意識を横に避けておいて、歩いている事や、周りに見える風景の美しさ、食事の味・香りなどにも意識を向けてみたらどうかと思うのだ。

些細な、本当に些細な発見がそこにはあるかも知れない。
そういった発見がある、というだけでも、意識の矛先を変えてみる価値は十分にある、と思うのだ。

楽しいじゃないか、それも。