Life as Bio-structure 〜 生物構造体としての生命/人生


人の生命が有限であるか無限であるか、宗教家でも無く科学者でも医者でも無い僕には良く分からないのだけれども、少なくとも物質的存在としての身体は放って置けばいつかは使い物にならなくなる。何となくそれは知っている。
死と呼ばれる、老いといわれるソレを怖がっている人達は、ある時は化粧をしたり、健康食品を食べたり、フィットネスクラブで死にそうになるまで運動したり、もしくは最近話題の「大人のための足し算ドリル」なんかをやって、肉体の崩壊を食い止めようと努力をしている。もちろん僕は決してこうした努力をナナメからイチャモンつけてやろうなどとは思っていない。かくいう僕自身も、割合とこういった話を信じて、自主的に野菜ジュースとか豆乳だとかを飲んだり、ランニングなんかをやって3日で飽きたり、あるいは「右脳開発系」の怪しいコンテンツ(勿論、お金は払ってないけど。)に手を出していたりするからだ。

死にたくない、老いたく無い、健康でいたい。これは非常にまっとうな感情だろう。誰だって、よっぽど苦しい事でもない限り、出来るだけ死にたくないし病気に悩まされる事無く自由闊達に日々を暮らしていたいだろうから。


ただ、もう一回考えてみるべき事があるんじゃないだろうか?と思っている訳です。タイトルに挙げた、Life as Bio-structureって言葉は、勿論どこかのお偉い先生の言葉なんかじゃなくて僕が適当に付けただけなんだけど、何が言いたかったかというと、つまりは人間の生命なり人生が、科学という側面から捉えられてしまう事が多くなるに従って今までとは別の方向に進みつつあるんじゃないのかい?という事なわけです。ったったコレだけの単純な事なんですが、なかなかどうして難しい。


 自分は「人間だ!」という時に、その「人間」っていう言葉には、生物の中での特殊性を主張する心情が隠れている訳です。心を持ってるとか、言語を操れるとか、文化を生み出せるとか、人権が備わってるとかなんたらかんたら。こういった人間固有の価値なり特殊性が人間の「人」生やら生命やらを形作る一種のツールになっている訳です。


だけれど同時に僕達は、自分達人間が、動物と同じ物理法則に基づいて地球に暮らしている事だとか、ある程度同じ生体構造(循環器の構造だとか、DNAだとか)を有しているって事も知っている。そういう意味じゃ、全然人間ってのは特別でも何でも無いわけです。


「生命」という言葉のニュアンスが持つ、多義性が、結構一極化してきてんじゃねーの?というのが言いたいところなんですが、この続きはまた後ほど。