でもやっぱりどう考えても「世界妖怪会議」@八日市

を書いておかなければ末代まで祟られそうなので書くことにしよう。
いや然し、今ふと思ったのだが妖怪は祟る事は出来るのであろうか?祟る必要があるのだろうか?そして軽々しく「祟り」という言葉を使ったが、「祟り」とは何か?
いきなりタイトルから脱線してしまうのだが、見過ごせない問題なので自分なりの「祟り」観を書いておく必要があるだろう。



     ■『世界妖怪会議』感想〜序説〜『祟り』考■



         ■■■■■■■■祟り■■■■■■■■■

「犬神さま」の祟り*1、お菊の祟り*2、末代まで祟る、無理が祟って体調を壊す・・・と馴染みがあるようで馴染みのない言葉を列挙してみたが、この言葉に含まれる「祟り」の意味性にはある種の共通項があると考えられる。それはまず、「祟る事の出来る主体」である。祟るという行為は残念ながら誰にでも出来る訳ではないようだ。「無理を祟らせる」のはやろうと思えば、出来ない事も無いが、基本的にこの行為も行おうとして行えるものではない。では、一体誰が「祟る事」が出来るのだろうか?


◇「祟る」主体−客体
祟ることが出来るのは、「人智」を超えた「力」を持つモノであり、具体的に言えば神・神に類似したもの・幽霊などのエネルギー体であろう(って書くとまるで神秘主義家のようであるが、そんな人になるつもりは無い。僕は神秘思想をごく客観的に知りたいだけです。)。上記の例で言えば、犬神、お岩、恨みを持った人、などがその主体となる。では祟られる人=祟りの客体は誰か?これは万人に資格がある。私も貴方も万人が「祟られ人」として適格なのである。つまりは死んでなければ良い。


◇「祟る」目的
祟るのは何故か?=「恨み」「怨念」を返す事が目的である。或いは神という不可侵な存在に対しての侵犯行為へのサンクションであるともいえる。ハンムラビ法典を引き合いに出すまでもなく、祟りとは「応報刑」であり、現実には行えない応報刑(復讐)を代位執行するための手段なのである。(法システム*3として「祟り」の構造を読み解く事が可能なのは明白である気がする。まずい。これは面白いぞ。面白いからココにはあまり書かない事にしよう)。「祟り」が執行されるのは、その「恨み・怨念」を持つことが社会倫理上*4「妥当」とされ、その復讐を社会から許可されることによる。つまりサンクションを与えるべきことが、「社会的に了承された事*5」によるのである。


◇祟る事/祟られる事による効果・方法
上記に述べた通り、「祟り」の目的は「罪」に対する「制裁(サンクション)」であるから、祟られる事で受け取るのは基本的に「害悪」である。それは例えば病気であったり、死であったり、体の一部の欠損/障碍として表される。つまり日常(常体)の「剥奪」である。今日でもし「祟り」があるとしたら、それは「自由」の剥奪という形をとって起こるかもしれない(少なくとも刑罰は、財産処分の自由(罰金)・身体の自由(禁固)生存の自由(死刑)などを剥奪することに執行されている。)。


◆まとめ?
書いている内に思いついた事を、推敲もせずに(って日記を書くときに推敲なんてフツウはしないか。)書き殴った為、文章の筋が錯綜しているように見えると思う。なのでまとめを書いておいた方が良いだろう。つまるところ「祟り」とは非日常的・不可視なエネルギー体(神・念など)による、常体の剥奪効果をもたらす社会的制裁装置である。ということになる。


□で、問題は妖怪は「祟る」事が出来るのかという点だった訳ですが、結論から言えば出来ると言う事になりますな。そもそも「妖怪」というのは「(自然)現象」の表象であると私は考えていまして、もっと極論すれば妖怪=自然ともいえると思うのですな。自然に対する加害行為なんてのはいくらでも考えうる訳ですから、それによる常体のオ剥奪というサンクションも十分起こり得るわけです。だから、妖怪は祟れる。

*1:犬神家の一族」中の台詞で有ったはずだ。だがこれは残念ながら祟りではなく、実際に殺人を行っていた人がいたわけであるが。

*2:番町皿屋敷のことである。

*3:法システムとは、法律を意味する訳ではない。法律とすると実定法や成文法を想起してしまいがちであるが、ここで語りたい法システムとは慣習法レベルの話である。規範と規範の逸脱者に対するサンクションという意味で、「祟り」及び「祟りを喚起する行為」は「法」構造を持つといえるだろう。

*4:当然の事ながら、社会倫理とは時代・場所に応じて異なるであろう。そして「祟り」が「祟り」として機能するためには、現実の法システムとの関係性を見る必要がある。現実の法システムにおいて制裁が加えられている「罰」であれば、「祟り」がそれを代行する必要は無い。

*5:社会的な了承とは、「祟り」が内面化されることをさす。「祟られて」当然だ、と思う事が、内面化の成功を示す基準値となろう。