語られたモノとして

さてこの実話から派生して、物語は歌舞伎や文楽で取り上げられ、創作されております。歌舞伎で有名なのは「伊達娘恋緋鹿子(だてむすめこいのひがのこ)」文楽で有名なのは「好色五人女(作:井原西鶴)」だそうで。実話と創作の相違点は、創作の方は、劇的に演出するためにお七をクレイジーガールじゃなくて、無分別だけど可憐で純真な女の子として描いている事みたいですね。その方が悲劇として成り立ちやすいものね。話の大筋は一緒なんですが、吉三郎に逢わなあかん理由が多少違っていたりするんですわ。例えば、ある事を知らせなあかんから(吉三郎の生死にかかわる事実)とか、純粋に逢いたいから、とか。あと違いは、創作の方のお七は放火した後に、はっと我にかえって、火事の事実を皆に知らせるために鉦を鳴らすみたいなんですね。<この場面が名シーン。華宵先生もこのシーンを「情炎」に描いてはったのですな。この点については、鉦を鳴らしたかったから火事(ボヤ)を起こしたという描かれ方もありました。何故、鳴らしたかったか、というと江戸時代は一定の時刻を過ぎるとドアを開けちゃいけなくなるらしく、火事の時に限ってドアを開けても良くなるそうで、ドアを開けてよくなれば吉三郎に会いにいける、となる訳ですな。だから正確にはドアを開けたいから鐘を鳴らしたくて、鐘を鳴らしたいから火を付けた、という事ですかな。まぁ、いずれにせよ、恋は盲目、自己中もいいとこな訳ですよ。幸いボヤで済んだから良いものの、死人でも出てたらどう責任とんねん!!(って取れないよね。ザオリク使えるわけでもないしさ。)ということで、死刑になっちゃうんですよ。かわいそーに。んー。そして、そんな愛し方をされてみたい、と思ったり思わなかったりしましたわ。(いや、全然思わないな。よく考えたら。)