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popopon

 日記をつける事が何らかの意味を為すのか、判断し難い。しかし書いてみない事には何も分からないので、とりあえず書いてみよう。垂れ流しの言葉の羅列、それも良いだろう。日記の醍醐味は奔放さにあるのだから。(ほんとに?)

ネット上で日記を書くのが身の周囲で流行っている気がする。内省的な人が多いから?いや、違うね。その逆。剥き出しの生命を見てもらいたいんだ。脚色する前の、々しい生を。僕もきっとそうなんだろう。身体を得る前の生命を曝け出したい。身体は、他者の存在が受肉してくれるものだから。
その上で、ネットは好都合だね。誰も身体を持ってないから。

あぁ、ぽんかんが美味い。

紀伊国屋文左衛門はえらいね。ぽんかんを広めた訳じゃないけどさ。

ぽんかんを今、美味しく食べられてるのは、彼のおかげだと思います。少なからず。ちなみにポンカンは「インドのスンダラ地方が原産で中国から台湾、そして日本へと渡ってき」たみたいで。「明治29年に台湾から鹿児島県に苗木を導入して栽培が始まった」みたいだから、実は由緒正しき食べ物らしい。そりゃそうだね。由来まで分かってるんだから、由緒正しい筈やわ。

でも、いま、現に食べてるポンカンの生産者や実の成っている姿を見れないって点では由緒正しくないかな。経験主義なもので。パッキングされた状態の食料が、ポロっと目の前に出されて、それを食べる事に何の不思議も無い。これって実は寂しいことだな、と。便利だけどね。

 世間じゃ食欲が必須の欲求だって言われてるのに、それを自分の手で満たせないのって、寂しいことだと思います。原罪意識を持て、っていう意味じゃないけどさ。
少なくとも、誰かの手によって育てられ、或いは、植物なりが自主的に頑張って育った、その結果の一部を食べてると、思い返すぐらいの事はしたい。と、いうかしようと思った。彼らの生命(life)の一部を有難く頂いてるんだよね。全てじゃないけどさ。

 だって、牛のカルビは牛の生命(life)の全てじゃないもんね。人間の耳が人間の全てじゃないのと同様。(この際、アイデンティティは放っておこう。人間だけに備わったヤヤコシイ性質だからね。)でも生きた結果の一部である事に変わりは無いわけです。まぁ、なんにしろ、我々は多重の生命の重なりの中で生きている訳で。アハアハ。

なんだか、宗教的になってきたところで、ポンカンをもう一口。
うんうん。そう思ったらなおさら美味しくなってきた。


眠れない全ての梟達に子守唄を。