イメージトレーニングと悟りの体験は恐らく一本の線で繋がっている。


有名なスポーツ選手、芸術家、医者と言った身体の精密な動作を要求される人々が(あるいは精密な動作をしたいと望む人々といった方が良いのかも知れないが)、自らの理想する最良の動作を自分が実践しているというイメージを極めてリアルに、しかしバーチャルに体験する。これがイメージトレーニングである訳だ。

イメージトレーニングは熟達すればするほど、恐らく身体の動作を伴う必要がなくなってくる。


どういう事かと言うと、例えば野球選手が、バットで球を打ち返すというイメージトレーニングを行ったとする。
イメージトレーニングは次のような過程を経て、変化していくのではないか?



段階1>


イメージトレーニング力が発達していく途上にあるのならば、イメージを思い浮かべると共に、実際にバットを手に持ちスウィングしなければならない。
相手投手が振り下ろした手、そしてその手の軌跡から、ラインを棚引かせながら飛んでくるボール。このボールを打ち返す為には、身体を捩じらせ再び戻す際に、手に握ったバットを、ボールの軌跡に合わせ、ヒッティングさせる。

実際に体をよじらせ、手に持ったバットをスウィングする事によって、彼はイメージ上のボールを打ち返す事が出来る。



段階2>
イメージ力が強化されれば、実際にバットを持つ必要がなくなってくる。体を捩じらせ、仮想のバットを振るだけでよくなるかもしれない。


段階3>
そして、更に強化されれば、体を捩じらせる必要も、腕をスウィングさせる必要もなくなってくる。

ただ座っているだけで、ボールを打ち返したり、あるいは空振りしたりする事が出来るようになる。あくまで仮想の話ではあるが。



で、これが、何で悟りという体験に繋がるか、という疑問が出てくるでしょう。
私は、悟りという体験、あるいは悟ったという状態は、
あらゆる現象をイメージ上でリアルに処理出来るようになった状態の事を言うのではないか?
そう思った訳です。

ちょっと考えがまとまってないんで、また後でちゃんと書きますけれども、

「〜との関係性」というプロセスを経ずして、「ワタシ」を立ち上げる事が出来る状態が悟りなんじゃないか、と、そしてその状態に至るための鍵がイメージトレーニングにあるんじゃないか、と今のところ考えている訳です。

なんて、書いても明らかに独り善がり(実を言うと自分も何を言ってるか良く分かってないので、独り善がりにすらなっていないのですが)、なので、また考えがまとまり次第書く事にします。