一応この日記のタイトルは、日記の目的を意味してもいる。

このタイトルは完全に造語であって、辞書を引いた所で意味は出てこないです。
説明する、という程のものじゃないけれど、一応、胡散臭い注釈をつけておいた方が、良いかも知れない。


◆Bio−mort
:バイオモートと読むのだけれど、これは「生死体」と訳され、もっと分かり易く言うなら脳死体の事を指す。僕は「脳死」という死の概念というは、「人間的な生」の概念の一部として語る事が出来ると思っている。直ちに「三徴候死」を指すものでなくもっと広範な意味での「自然死(言い換えれば、動物も直感するような「死」)」に比べ、「脳死」は、より文化的な「死」の概念=「生」の概念である、と僕は思うのだ。「生ける屍」という些かホラー小説のような(おっと、山口雅也はミステリか)、状態の訪れは純粋に文化的である。
「死」とは何か?「生」とは何か?人間としての「死・生」とは?と考えたときに、この科学を媒体にして生み出された脳死(「生死体」)という「死の文化」は重要な思考のポイントを与えてくれはしまいか?



◆Bio-portal
:バイオポータルなんていう単語は存在していない、と思う。少なくとも僕は知らずに安易にこの言葉が存在していない、なんて言っている。bioとは「生」厳密にいうならば、bios=政治的「生」=人間的「生」=Bioであって、portalとは門とか入り口、門脈とか言った意味だ。


>Bio portal :「生」の門、入り口とは一体何か?
「生」「生きる事」とは単純に生物学的な意味での{生まれる/生まれない}という事ではなく、もっと文化的に形作られた一種の概念体系なのだと僕は思う。人間としての「生」とは、「生」そのものを問い直せる「生」なのである。


その観念をもう一度、見つめ直す、という作業の始まり、つまりそれが、「生の門」なのだ、と言いたい訳だ。。どう「生」が形作られ、用いられ、語られ(表象され)、意味づけられ(価値付ける程度の意味、それは表象から読み解く事が出来るのかも知れない)、改変されてきたのか、またどう改変されていくのか、どう改変されるべきなのか?


◆二つを出会わせた事
:「死/生」を通じて「生/死」を知る事、「生/死」を通じて「死/生」を形作る事。これを表すのに、ちょうど良い単語、そして語呂が良い単語を探したらこうなった。無関係ではないし根拠が無いわけでも無いが、直感的ではある。



一応、こういう事(無理矢理なこじつけ)を目的として、この日記をつけている。その目論見が成功しているかは??